社長ヒストリー

私が子育てで経験したことが少しでも、
子育て中のママたちのお役に立てたらと思います。

代表取締役 主森 直美

●兵庫県知事許可(般-27)第114613号
●兵庫県知事登録(二級)第100677号
●兵住改登録 A03第00023号
二級建築士/カラーコーディネーター/増改築相談員/ライティングコーディネーター/整理収納アドバイザー/簡易耐震診断士
・1957年 兵庫県生まれ
・2人の男の子の母親
・フラメンコ暦20年(教室ペーニャフラメンカ主宰)

1957年9月 父:俊樹25歳、母:寿子23歳の長女として、
兵庫にて誕生。

父は6人兄弟の長男、母は一人っ子だったので、私は、どちらの実家にとっても待望の孫でした。

幼少期は関西で過ごしておりましたが、父が銀行員だったため、小学校は2回くらい転校。
小学校の後半は名古屋に住み、中学は名古屋で入学。転校生として、かなりいろいろな場所で過ごしましたが、転校生独特の辛さは全くなく、本来の天真爛漫さと、あまりくよくよしない性格のため、各地での生活を楽しんでいたようです。
今でも各地に友人がいて、交流もあり、私にとって転校生活は財産になっています。 高校時代は地元の神戸に戻り、御影高校へ進学。

そして、大学は京都の同志社女子大へ入学。

学部は英文学部。(今の仕事とは無縁で、建築科ではないのです)

人生で一番楽しい女子大生活のスタート!!
4年間、毎日阪急電車に乗り、梅田経由で阪急河原町まで1時間半かけて通学。帰りが遅くなることや、朝一番の講義の時はたまに友人のマンションに泊まることも。
この4年間もあまり勉強することはなく、京都での学生生活を満喫。 代弁できる講義をサボっては、京都の名所旧跡めぐりをしたり、四季折々の京都を楽しみました。
帰り梅田で途中下車し、梅田やミナミで遊んで帰ることが多く、反対に神戸で遊ぶことがなかった時代でした。

バイトは、一応英文科だったので、夢だけは大きく、将来NASA(もちろんあのアメリカの宇宙ステーションです)で働きたいな~と思っていました。
今でも、このことを人が聞いたら、笑われるかもしれません。大それた夢を描いていたのですが、現実は海外から京都に来た観光客の通訳のバイトをしたり、家庭教師をしたり、ブティックで働いたり… しかしながら、通っていた女子大は結構厳しく、将来のこともチラッと考えていたのかもしれません、勉強だけはしっかりしておこうと頑張りました。
そのおかげで、卒業時は上位につけて卒業。自分でも驚きです。

就職は、4年制卒の女子大生にとって就活難の頃だったのですが、ある方の紹介で、当時は全盛期だった、大阪の淀屋橋にあった「レナウン」に就職。
着る服には困らない楽しい、花のOL生活のスタートです。
日本がバブルに突入していた頃なので、イケイケの時代でした。

そして、24歳で結婚。出産を控えて退社。

25歳で、長男を出産。

私は女姉妹だったので、男の子の子育ては全く分からなく、とにかく必死でした。おっぱいしか飲まないので、夜の授乳も3時間置き。今みたいに紙おむつがない時代で、布おむつも縫い、夜に漬け置き洗い。
主人は毎晩帰りが遅いので、お風呂に入れるのにもひと汗かきます。
ゆっくりお風呂に入った記憶がありません…。
今でいう、公園デビューもありました。 ママ友たちとお互いの家を行ったり来たりして、みんなで持ち寄った食材でパーティーを開いたり、お出かけしたり…。

ママ友と子供と一緒に遊んでいても、子供同士がオモチャの取り合いで喧嘩、掴み合い、砂場での、砂の掛け合いなど…喧嘩を止めさせる方法もいろいろと学びました。
親もストレスがたまってくるので、どうしても子供にあたってしまうこともありました。でも、寝顔を見ると、「悪かったな~、ごめんね~」と抱きしめて、寝てしまいます。
家も賃貸でした。当時はリフォームという言葉もありません。自分なりに、インテリアの雑誌を見て、あれこれと家の中をアレンジしていました。
当時流行ったのが「赤毛のアンの手作り〇〇〇…」本。全巻購入し、お料理や、お部屋の飾りつけなどを工夫していました。

子育てにおいて、子供が幼稚園を卒園するまでに毎日欠かさなかったのは、毎日3冊の本や絵本を読み聞かせることでした。それぞれの好きな本を、3冊ずつです。本屋さんができるくらいの量の絵本がありました。
子育てって、親も一緒に成長していくんだな~と今でも思います。

長男が3歳の頃に、次男が誕生。

すぐに長男が3年保育の幼稚園に入園。

すぐに長男が3年保育の幼稚園に入園。
送り迎えに生まれたばかりの次男を連れて毎日歩いて、通園。
その頃から、毎日が戦争みたいでした。
朝は早く起きて、お弁当作り、朝ご飯の用意、幼稚園の準備、お掃除、洗濯。
男の子なので、毎日外で一緒に走り回っていました。
この頃は、家族でよくキャンプにも行ってました。
富士山の西湖、河口湖あたりに行き、テントでの生活です。
野外での料理もかなり凝っていた頃です。

長男が幼稚園の年長さんの頃に、自宅から徒歩1分の場所で、英会話スクールの先生の募集があり、ちょっと応募してみようかと思いました。
面接と試験を受けたら合格して、午後の1時間だけですが、教えることになりました。

これが私の、主婦として働いた第一歩です。

これには、理由があるのです。

学生時代にジャズダンスをしていて、出産を機に辞めていました。
たまたま、子供と出かけていた時に、フラメンコのライブを観たのをきっかけに、フラメンコを習い始めたのです。
まだ、バルセロナオリンピックの前で、フラメンコはマイナーなダンスだった頃です。そのダンサーは、スペインから凱旋帰国公演をされていた方で、今ではフラメンコ界では重鎮的な存在の方ですが、その先生に直接電話して、教えてくださいと頼み込み、レッスンを受けることになりました。
そのレッスンの費用と初舞台の費用を捻出するために、働こうと思ったのです。レッスンは主人の休みの土曜に集中して行っていました。

長男が小学校5年生くらいの頃。たまたま、あるリフォーム会社のアルバイトの募集がありました。
「インテリアの好きな女性パート募集」
これが、私が最初に働いたリフォーム会社です。
その頃には英会話スクールの生徒さんの数も増え、フラメンコの方も教える側に立つようになり、生徒さんもかなりいたので、昼間のバイトだけをやっていました。

でも、仕事がだんだん面白くなりかけた頃に、あの神戸の地震が起きたのです。
その影響で、一気に仕事が忙しくなってしまいました。
そのリフォーム会社も、最初は4人くらいでスタートしていました。
営業、設計、工事管理、アフターフォロー、チラシ作り、チラシまき、イベント、駅前でのチラシ配り…などを全て自分たちでしないといけない状況でした。

でも、この経験が今の私が独立し、
会社を経営するのに必要な要素を与えていたのです。

つまり、集客や営業から、提案、見積もり作成、工事管理は全て手探りで社長の見よう見まねで覚え、大工さんの後を追って、分からない構造を教えてもらうためにあちこちの現場に何回も足を運び、しつこく分かるまで、教えてもらっていたのです。
今も、その大工さんには感謝してもしきれません。
もう他界されてしまったのが残念です。

このリフォーム会社さんで、かなり鍛えられ、この期間に二級建築士の資格も取りたいと思い、仕事が終わってから夜に専門学校に通ったのです。
家事をしながら、仕事もしながらの資格の勉強だったので、子供が寝静まってから、夜中の3時くらいまで勉強をしていました。
若かったから、できたのかもしれませんね。
自分が貯めたお金で資格の専門学校に通ったので「絶対に一発で合格しないと!!」と思う一心でした。そして、二級建築士、一発で合格!!
大学の英文科卒で、建築の仕事をして2年で資格を取る。全く後先も考えることもなく取ったので。自分でも驚きです。

その後、独立
これには、理由があるのです。 独立したのは、あまりにも会社の仕事が忙しく、盆・暮・休みもほとんどなかったので、自分で仕事をしたら時間の融通がきくかもしれないと、ただ単純に思ったからなのですよ。 社長にも了解を得、応援してくれました。子育て、家事をしながら、会社を経営していくのは、振り返ると、毎日があっという間の日々でした。

「女性の女性による女性のためのリフォーム」

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